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祝島の人たちがいるところには、いつでも笑いがある

 先週、東京に戻ってきました。

 島を出る予定にしていた6月10日に、中国電力が上関原発建設予定地の田ノ浦に設置している桟橋を移設するとの情報が入り、早朝、島の人たちと一緒に漁船に乗り込み、現地へ向かいました。島の漁船が桟橋付近に入り込めないよう連なり、その他の人たちは上陸し、桟橋付近に座り込みました。結局は、雨風波が強くなり、この日の作業は取り止めとなりました。けれど、地元の報道では、島の人が桟橋付近に座り込んでいる数秒の映像と、翌日何事もなかったかのように、台船が桟橋を撤収し、運んでいく様子が映し出されたばかりでした。

 祝島の人たちがテレビや新聞、Webで取り上げられる度に、いつも思うことがあります。こういった抗議行動にしても、その様子を言葉にできるのは、とても限られた部分であり、ニュース映像でも、象徴的な一瞬を切り取るばかり。現地にいない第三者が得られる情報は、非常に偏り、そして限られています。でも全体をみれば、たくさんのことがその中で起きています。私は、その場に立ち会わせていただいている者として、何を伝えるべきか、伝えたいのか、それを考え続けています。

 例えば、抗議行動の中でも、祝島の人たちと一緒にいると、いつでも、どこにでも笑いがあります。デモであろうと、県庁への申し入れであろうと、現地の座り込みであろうと、もちろん激しい行動になることもありますが、どこかユーモアがあり、笑い飛ばしてしまおうとする祝島の人々の姿に、気がつけば私も笑ってしまうことが度々です。最初は、そんな自分が不謹慎な気がして戸惑ったものですが、でも今は、そこに私が魅せられている祝島の人たちの本質がある、と思うようになりました。

 普通に考えれば、デモや抗議行動、という非日常の行為であるはずのものが、祝島の人たちにとっては、日常、そして島で生活を続けるということに直結している行為であるということ。自分たちが生きていくための抗議であり、生活を懸けた行動であるということ。観念的な運動とは、決定的に違うのです。そしてそこには、劇的な数秒のニュース映像からは想像できない淡々とした時間が流れています。時に切実な叫びが飛び交うこともあれば、誰かの冗談でドッと笑いがおこることもある。全身の血が、一瞬にして沸騰するような緊張感に包まれることもあれば、冗談や世間話に講じて時間をやり過ごすこともある。原発誘致の話しが持ち上がった当初の激しい抗議行動も、この27年の間に様々な変遷を経て、今のカタチがあるのだろうと思います。

 どんな場面にも、一瞬、一瞬の中に、日常と非日常、怒りと笑い、激しさと平穏、そんなものが入り交じっている。瞬間を構成するものは決して単一ではなく、きれいに切り分けられるものでもない。それが“生”の本質ではないかと思えてきます。






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  1. 2009/06/17(水) 21:21:07|
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