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私が映画をつくるわけ 〈『アレクセイと泉』との出会い〉

 ブログに書きたいことはたくさんある。特に、祝島の人たちのことや、この夏の撮影中の出来事を、早く書き留めておきたいのだが、またその方が、読んでいただくのも楽しいだろうと思うのだが、でもここは焦らず、まずは、私がどうして自分で映画をつくろうと思うまでに至ったのか。少し長くなるが、その話しからはじめたいと思う。

「あなたが一番影響を受けた映画はなんですか?」
と問われれば、私は迷わず『アレクセイと泉』と答えるだろう。
この映画は、私が仕事として初めて製作、宣伝、配給に携わった映画であり、ひとつの作品を何十回と繰り返して観た最多鑑賞映画であり、そして何より、私自身に大きな変化と気づきと、そして希望を与えてくれた映画なのである。

 こんなふうに書くと、いかにも作り込まれた大作映画のように聞こえるが、作品自体は、至って地味なドキュメンタリー映画である。

 ベラルーシの小さな村に住んでいる55人のじいちゃんばあちゃんと、ひとりの青年アレクセイが、ただひたすら土を耕し、泉から水を汲み、豚に餌をやり、薪を割り、食事を作り、酒を飲み、ダンスをし、洗濯をし、そして泉からまた水を汲む。その日常を淡々と映し出す。特別なことは何もない。ただ、その地が、チェルノブイリ原発事故の最も深刻な被害を受け、地図から消された村ということ、でも村の中心に湧き続ける泉だけは、未だにまったく汚染されていない、ということをのぞいては…。

 移住勧告が出されても尚、その村に住み続ける老人たちに、
 なぜこの村を出ていかないのかと尋ねれば、

 「ここには百年の泉があるからさ」

 「一緒に暮らしている動物たちはどうするんだい?
  この子たちを残して街へ行くことなんてできやしない」

 「この泉からいただいた水は、ここで返さなきゃいけない」

 そう答えるのだ。

 そこに映し出されるじいちゃん、ばあちゃんが、その深く刻まれた皺くちゃだらけの顔が、泥が染み込んだまるで熊手のような手が、本当に美しいのである。

 この村の生活では、ほとんど電気を必要としない。それが、電気を生み出すための原子力発電所の爆発事故で、人が住んではいけない危険地帯になってしまった。それでも、村人たちはそれを呑み込んで、いつもと変わらず、汚染された土を耕し、そこでできた作物を食べ、暮らし続けている。

 七十歳を過ぎたじいちゃん、ばあちゃんが、放射能汚染から逃れるよりも、残りの余生を今まで通りに村で生活したい、この故郷で骨をうずめたい、と留まることは、この私でもどうにか推し量ることができる。でもアレクセイは三十四歳の働き盛り。幼少の頃に患った小児麻痺の後遺症が残っているものの、でもとても知的で、おだやかで、労働で鍛え抜かれたそのたくましい肉体といったら、そこらの日本の若者の比ではない。まだまだこれからの人生である。その彼がこう言うのである。

 「運命からも、自分からも、どこにも逃げられない。
  だから僕もここに残った」

 そうして、老人たちの手伝いをいってに引き受け、動物たちに優しく話しかけ、黙々と日々の作業をこなすのである。

 村の中心に湧き続ける百年の泉。保健局の人が来て、何度検査をしてみても、汚染値はゼロ。この奇跡の泉は、いつも変わることなく、まるで村人を見守っているかのように、清冽な水をたたえ続けている。そして、その泉を、まさに心の拠り所のようにして、今日もまた、村人は水を汲みに来るのである。


 この村人たちの、生きる姿を見ているとき、絶え間なく湧き続ける泉を見る度に、私の身体の底から、ふつふつと込み上げてくるものがある。それは、この世界の不条理に対する怒りよりも、市場経済優先であることへの虚しさよりも、これからこの村人やこの世界はどうなっていくのだろうかという憂いよりも、それよりもなによりも、よし、私も生きていこう、と思える未来への希望なのである。
 まさに“悲劇”であるはずの話しなのに、私はそこにいつも希望という名の生きる力をもらうのである。

 この世の中を動かしているのは、国家?政治?マスメディア?投資会社?確かにこれらの力は絶大である。ごく限られた階層の力で、操作されていることばかりである。でもそれとはどこかまったく違う次元で、“生きる”という営みは、いつでもどこでも続いている。悲しみや喜び、怒りや憂い、愛や憎しみ、そんなものを全部ひっくるめて、胸に抱きながら、人は生きていく。自分が今いる場所で、自分の生と向き合っている。かけがえのない、無数の生の形がある。その生をひたむきに生きようとしている姿に出会う時、私は心から尊くて美しいと感じ、これ以上に大切なものって何があるのだろうと思えてくるのだ。

 『アレクセイと泉』のじいちゃんばあちゃん、アレクセイから、そして本橋成一という人のまなざしに、私はそれを教えられたのである。

 悲しいもの、怖いもの、汚いものは見たくない、知りたくないということではない。いや、私はもっともっと知らなければいけない。見なくてはいけない。聞かなくてはいけない。
 そして日々、その生を巡って、様々な葛藤や戦いが起きているわけだけれども、それに向き合いつつも、でも、いつでも最後には、希望を、未来への希望を見出せる人間でありたいと強く願うのである。

 そして、もしこれから自分で何かを表現できる時がきたのなら、その希望につながるものを作り出したい、と思うようになった。

 そう、私の中にも、百年の泉が、フツフツと湧き出したのである。


ポレポレタイムス社 http://polepoletimes.jp/times/
サスナフィルム http://www.ne.jp/asahi/polepole/times/sosna/index.html



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  1. 2008/09/09(火) 02:05:57|
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