もう少しで、祝島に通い始めてから一年が経つ。
昨年、3月のこと。5年ぶりに降り立った祝島では、ひじきの時期も終わりかかっている頃だった。私はタカシさんに、ひじき取りに一緒に連れて行ってもらうことになった。
午後3時半過ぎ。
既に潮はだいぶ引いており、突き出している岩肌には、ふさふさとしたひじきが海水の満ち干きに気持ちよさそうに揺れている。それをタカシさんとサカモトさんが草苅り鎌でサッサッと手際よく刈って、カゴに入れていく。私はそれを袋に詰めていく。手袋を通しても、その張りがあって、ちょっとヌルッとしたいかにもイキの良いひじきの感触が伝わってくる。おいしそう…。
そうして、段々と傾きかけてきた太陽の光に反射して、ひじきはまるで宝石のようにキラキラと輝き始めた。
その時、ふと思ったのだった。
このひじきは、人が何の手も加えず、ただただ海に育まれたもの。それを私たちはこうして取らせていただき、食べさせていただく。海が命を生み出し、育て、私たちはその命にまた生かされる。そのことを思った瞬間、何か大きな力が私の全身を駆け抜けていったような気がした。
海はひたすら、私たちに与え続けてくれている…。
気がついたら、あとからあとから涙がこぼれ落ちていた。
その時だ。祝島の漁師さんの言葉が甦ってきた。
「私ら漁師じゃけ、海は絶対に売られん。」

そして、この間の満月の夜、(正確に言うと満月の前日)今年もひじきの口開けとなった。私も、タミちゃんとヨッちゃんと一緒に深夜のひじき取りに出かけた。
月明かりの美しい晩だった。
冷え込むだろうと、上も下もこれでもかというほどに着込んで、カイロを背中に貼って、原付で西へ走る。
既に、何組か先乗りしている人たちの灯りが見える。
プップププッププー。
タミちゃんは、浜に降りている人たちにクラクションでご挨拶。
この時期、最も潮が干る時に口開けをするだけあって、だいぶ沖まで岩肌が見えている。草刈り鎌を片手に何枚もの麻袋を腰に紐で結わい付け、ヘッドライトひとつで、岩場を進む。
足元は濡れていて、かなり不安定。そこを腰を屈めながら、ロンゲのように生えているひじきを鎌で刈っていく。カゴにたまってきたらそれを袋に入れ、肩に担いで、防波堤の下まで運ぶ。ひたすらその繰り返し。
すぐに汗だくになって、一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、カイロを取って、動き続ける。
本当に静かだった。
聞こえるのは、自分の息遣いと穏やかに寄せる波の音だけ。
私はまるで、山登りをしている時のように、もう何も考えず、ひたすら手を動かし、足を前に進めるだけだった。
何度も足を岩場にとられる。
潮が干るんで、岸が遠いのがうらめしい。
海の恵みがどうだこうだ、なんて言っちゃられない。
今、このときは、そんな言葉じゃおさまらない。言葉じゃない。
こんなことを、60、70、80のおばちゃんたちはしていたのか…。
0時過ぎから始まって、気がつけば3時をとっくに廻っていた。終わる頃には、全身から湯気が立ち、ウールのセータはぐっしょり汗で濡れていた。
帰り道、くったくたの身体に、冷たい風が心地よく、そして沁みた。
持ち帰ったひじきは、その後、大きな鉄釜で、真水で5時間ほど炊き、そのあとそのまま一晩蒸す。そして天日で丸二日干して、袋詰めされる。
鉄釜で、それも薪で炊き上げる、という大きなひと手間が、祝島のひじきはやわらかくて絶品!といわれる由縁。
祝島市場 →
http://www5d.biglobe.ne.jp/~jf-iwai/itiba.htmその二日後、深夜のあの現場が見たくなって、お日様が出ている間に、また浜へと出かけた。道路が終わったところで原付を降り、その先をさらに歩いて進むと、そこには、アオサで一面まっさおに染まった岩場が広がっていた。
本当に美しく、そして静かだった。
その光景を一人じっと眺めていたら、この島がずっとずっと積み重ねてきた太古からの時の連なりに触れた気がした。きっと数百年前も、同じ光景が広がっていたに違いない。
島が内包している悠久の時の連なり。
そしてそこにおさめられている“記憶”のようなもの。
いつも一人になって島を歩くとき、そんなことが頭に浮かぶのである。
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- 2009/02/25(水) 15:47:46|
- 海のこと
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忘れもしない一年前の今日、私は小川紳介監督の映画『満山紅柿』を観た。
この映画、ずいぶん前から、どうしても観たいと思っていた映画のひとつだった。
というのも、私はあるドイツ人女性からこの映画のことを聞いていたのだ。
2002年、映画『アレクセイと泉』がベルリン国際映画祭の招待作品になったときのこと。私は幸運にも、監督と一緒に映画祭に参加する機会に恵まれた。そこで、現地の通訳兼コーディネータを引き受けてくれた、まだ年若くチャーミングなドイツ人女性シルビアと出会った。
彼女は日本語が堪能なばかりでなく、日本映画にもとても詳しかった。聞けば、日本に語学留学していた時に、小川監督の『満山紅柿』を観て、これほどの美しい映画を作る日本の文化、日本映画に強く惹かれたのだと話してくれた。若きドイツ人女性を虜にしたその映画とはいかなるものか。いつか私も観てみたいと、心の中に強く焼き付いたのだった。
そして、一年前の今日、ポレポレ東中野の特集の中の一作品として『満山紅柿』が上映されていることを知り、観に行ったのだ。
この映画の舞台は、山形県蔵王山麗の上山(かみのやま)。市内でもごく限られた地域にしか実らない極渋の紅柿は、日に干すと転じて、特上極甘の干柿になる。この名産品である紅干柿づくりの行程をひたすら描いた映画である。
三里塚闘争を撮り続けたことで知られる小川紳介監督は、70年代後半より上山市牧野に拠点を移し、自身も稲作をし、自給生活を続けながら、『1000年刻みの日時計ー牧野村物語』を製作。その中で、この干柿づくりもカメラをまわしていたが、結局本編に入れ込むことができず、後に独立した作品としての製作構想を持ちながらこの世を去る。それを、小川監督の師事を受けた中国人女性のペン・シャオリン監督が引き継ぎ、第二次撮影、構成、編集を行い、この作品を完成させた。
映画は紅干柿作りの全行程を丁寧に描いていく。
家族総出で何千個という柿の皮をひたすら剥いていく農家。その皮むき機の開発に情熱を捧げる鍛冶屋の親子。柿商を営む女将。延々と連なる干柿が日に照らされ輝く光景…。
映画の中では、絶妙、と表現したくなるようなシーンが何度も出てくる。
例えば、冒頭で、カメラをまわす準備をしていると、偶然通りかかったおじいさんとの会話が始まる。「ああ、牧野の小川さんですか。」という挨拶から、この地の紅柿の特徴、陽、風、土、乾燥地帯、霧などの条件がいかに干柿に合っているかと、滔々と語り出す。無駄のない的を得たその説明は実に見事で、それだけでこの地の紅柿が何たるかが、ナレーションなしで成立してしまうのである。通りすがりのおじいさんの言葉で。
映画の中で起きていく絶妙な瞬間の連続は、決して偶然のものではないということが感じられた。これは、この監督、スタッフが、この地で時間を共に過ごしてきているから開示された瞬間であり、この地に受け入れ許された者だからこそ記録できたもの、ということを強く思った。
映画を作るとは、時間を共に生きる、時間の共有なのだと。
そしてもうひとつ。この世の中には、記録して遺すべきものが確かにあるのだということ。この紅柿作りの記録は、これからの私たちの遺産となるだろう。
小川監督は1981年に大島渚監督とのインタビューでこう話している。「なにかが消えようとする時こそ、文化の真髄が見えてくる」と。そしてその文化の真髄を探すときに、人は多大な努力を払わなければいけない。
映画とは時間の共有。
そして今、記録していかなければいけないもの。
映画を観ての帰り道。
6年前に訪れた祝島がぼっかりと心に浮かんだ。必ず再び訪れようと心に決めていた祝島。
今がその時、そう思った。
『満山紅柿』
http://www4.ocn.ne.jp/~fdh/benigaki/
- 2009/02/13(金) 14:34:11|
- 映画製作
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昨夜、ぎりぎりまで仕事をし、22時東京発の夜行列車に飛び乗った。
夕食のお弁当を食べ、ノートパソコンを開いて仕事の続きをしていたら、すっかり電車酔い。横になったら、連日の寝不足のおかげで、ぐっすり熟睡。明け方、すっきりと目を覚ました。
あまりにもめまぐるしかったこの一ヶ月、うまく島に心と体が移動できるか少々心配だったが、夜行列車は見事に、またワープさせてくれた。
一ヶ月ぶりの祝島では、冷たい雨が降っていた。
着くとすぐに、今、島では、急性胃腸炎が猛威をふるい、診療所に駆け込む人が続出と聞く。ビールス性で、吐き気、下痢、高熱などの症状があり、非常に感染力が強いという。
70、80代のじいちゃんばあちゃんにとって、感染したら一大事だ。
いつも遊びに寄らせてもらうおばちゃんもダウンして4日目という。
とっても心配。明日、また寄ってみよう。
滞在日数に限りがあるため、大久保さんも私も、胃腸炎になってはいられない。
うがい、手洗い、顔洗い(これ効くのだそうだ)を欠かさずに!です。
- 2009/02/03(火) 23:36:48|
- 撮影編
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