2008年12月10日朝7時。いつもの場所に有志が集まり、行者堂の注連縄づくりが始まった。新しい年を迎えるための恒例の行事である。
まずは女衆が稲藁の向きを揃えていく。
それを木槌でたたいて柔らかくする。
藁の準備が整ったら、10人掛かりで太い注連縄を綯っていく。
鳥居と本堂それぞれに張るために二本。
ああでもない、こうでもないと、それはそれはにぎやかで、
作業中は、みんなの手と口が休まることはない。

撮影をしている私たちのために、急遽、この日そのまま行者堂に上がって、注連縄を張って下さることになった。
そもそも注連縄とは、神域と外界とを隔てる結界を作るためのもので、紙垂(しで)をつけた縄のことをいう。標縄、七五三縄とも書く。天照大神が天岩戸から引き出された際、二度と天岩戸に入れないよう注連縄で戸を塞いだのが起源とされているようだ。

この行者堂、奈良時代初期に、修験道の開祖といわれた役小角(えんのおづの)がここで修行したと伝えられている。今年は初詣もこの行者堂へあがった。そして思わず御守りを購入。
2009年、どうか島の人たちが息災で、
そしてこの映画撮影も無事にすすみますように。
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- 2009/01/27(火) 23:20:14|
- 撮影編
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いつの頃からか、毎年、自分の部屋で使うカレンダーは、月の満ち欠けがわかるものにしている。私は小さい頃から月が大好きで、夜、外を歩く時には、まず月が出ていないかを探す。今でこそ、月の作用については、一般的に色々と言われるようになったけれど、私が十代の時に月の本を手にした時は、まさに目から鱗、やっぱりそうだったんだ、と熱中して読み込んだ覚えがある。
この身体、月に作用されていると私はすごく実感している。特に女性であるから敏感なのかもしれない。色々とあるのだが、例えば、二十代の頃、なぜか心がざわざわして落ち着かない。なんだか大声で叫び出したくなる。定期的にそういう時が訪れる。私の場合、それはたいがい満月の日だった。(今はすっかり落ち着いている…)仕事をしていても、普段なら大したことでもないのに気が立つ。そのうちに、今日は満月だから気をつけなくちゃ、と思うようになった。
以前、ポレポレタイムス社の社員で毎日出勤していた時は、ボスの本橋さんは自分の手帳に満月の日を書き込み、この日はあやさんに要注意!としていたほどだった。なんて心優しい上司だろう(笑)
月をじっと見ていると、月も自分を見ていると思う。間違いなく、私のことを見ていると思う。そして、とてもとても不思議な気持ちになる。
今年のカレンダーは、今までと少し趣向が違う。潮汐カレンダーにしたのだ。月の満ち欠けと一緒に、潮の満ち引きがわかるもの。
祝島は海抜きにしては語れない。海のことを勉強したい、理解したい。そしてできるだけ多く海の様子を撮影したい。そのためには、潮の満ち引きがとても重要なのである。漁も、その日の潮で決まる。漁師のノブちゃんがいつも教えてくれるのだが、何度聞いても難しい。
このカレンダーがとってもいい。
これを見て、今日は、祝島の漁師さんたちは、漁に出たのかな、天気はどうだったかなと思い巡らすのだ。
祝島の海にワープできるこのカレンダー、とても気に入っている。
- 2009/01/23(金) 00:45:28|
- 撮影編
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今夜、ポレポレ東中野のレイトショーで、野中真理子監督の『こどもの時間』を観た。この作品、まさに秀逸である。何度観ても、感動が込み上げてくる。これほど、声を上げて笑って、泣くことがゆるされる映画はなかなかない。
埼玉県桶川市にあるいなほ保育園がこの映画の舞台。5年間のこどもたちの記録である。
ファーストシーンは、卒園式。卒園生ひとりひとりが、全身はちきれんばかりの喜びで身体をはずませ、みんなの前を歩きながら、卒業証書を高々と掲げる。その生き生きとした姿、まさに生命が躍動しているこのワンシーンだけで、ガツンとやられてしまうのである。
ほっぺを真っ赤にして鼻を垂らしたこどもたちが、こどもたちの世界の中で、こどもの時間を過ごしている。そして映画は、それらをこどもたちの成長や学びに安直につなげていこうなどとはしない。ついつい大人がすぐに聞きたくなるような保育園の背景や、こうして育ったこどもたちを他と比較して賞賛するようなこともしない。ひたすらこどもの時間に寄り添って、じっと見つめている。まさに、この作品自体が“こども”のようなのである。それがこの映画を制作している人たちが本当にこのこどもたちの姿に心動かされた証のように思えてくる。
生命力溢れるこどもたちの姿をじっと観られることが、どれほど幸せな時間であるか。そして、一番大事なただひとつのことを感じるのである。生命ってスゴイ!ということを。そして、ああこういうものを観たかったんだ、と言いたい気持ちになる。
カメラを向けるという行為は、たいていがごくごく個人的な思いから始まることが多い。でもそれが個人の領域を抜け出して、普遍的なものにつながっていくこと、そこまで昇華されること。そこに作品としての大きな別れ目があるといつも思う。私の映画製作も、どうしたらそこへ辿りつけるのか、寝ても覚めても、そのことはいつも頭から離れない。
ぜひぜひ『こどもの時間』観てください。まだ観ていない方はもちろんのこと、観た方もぜひもう一度!30日までポレポレ東中野で上映です。
映画『こどもの時間』1月30日まで
ポレポレ東中野でレイトショー上映(19:15~)

「こどもの時間」上映委員会
- 2009/01/17(土) 23:20:54|
- 気になること
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いつも何かと気にかけて下さり、色々な人につないで下さる強力な応援団、エミヨさんのご紹介で、この週末、三軒茶屋の
カフェ・オハナで、祝島のお話しをさせていただくことになりました。
今まで撮影してきた映像を約30分見ていただき、私が出会った祝島の人たちとその生活について、お話しできればと思います。
当日は、おいしいお食事をいただきながらのイベントです。(要予約となります)
ぜひ遊びにいらして下さい。
1/18(日) しまじかん meets 祝島
START:19:00
料金:3,500円 (FOOD, 1DRINK付)
場所:カフェ・オハナ
東京都世田谷区三軒茶屋1-32-6-1F 電話:03-5433-8787
http://www.cafe-ohana.com/
※要予約です。お電話にてお申し込み下さい。
- 2009/01/15(木) 15:09:36|
- イベント
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昨日、たまたま家人がつけていたテレビから、画家丸木俊さんが9年前のこの日に亡くなられたことを知った。以前、訪ねた丸木美術館で、原爆の図を前にした時に、全身で感じたものがよみがえってきた。
1945年、原爆が投下された数日後の広島に入り、一ヶ月の救援活動の間に、丸木夫妻が目にしたものは、まさに地獄図そのものだった。それ以来、二人はそれまでに描いていたような絵が書けなくなってしまったという。そして、誰も描かなかった“原爆の図”に着手するのである。
洋画家である俊さんが人物を描き、日本画家の位里さんが色をつける。ふたりの画家の共同制作がはじまった。そうして生み出された原爆の図は、15部にわたる大作となり、世界平和文化賞受賞。そして、南京大虐殺の図、水俣の図、沖縄戦の図、足尾鉱毒の図、チェルノブイリと続き、生涯にわたって、人間の愚行によって、この世界で引き起こされた悲劇を描き続けたのである。
佐喜眞美術館館長の佐喜眞道夫さんは、次のように書かれている。
…私は位里さんに、「先生の線にはとても大きいものを感じるのですが、どうしたらあんな線を描けるのですか」とお聞きしたことがあります。位里さんは、「山を見るじゃろ、見るだけじゃダメなんじゃ。こっちが見ると向こうから何かがくるんじゃ。そのぶつかったところをなぞればいいんじゃ」とおっしゃったのです。それは戦争で死んでいった人々の命の根源をつかみたい、という位里さんの祈りのように思えたのです。
ご夫妻は、自ら描いた絵のガイコツの山の中に、自分たち二人の像を描き込みました。「戦争で死んでいった人々は生きている私たちに話しをすることができません。だから死んでいった人々にかわって私たちがこんな絵を描くんです」と、おっしゃった俊さんの言葉が、今も私の耳に残っています。…
2002年の12月。私は28歳の誕生日をきっかけに、ずっと訪れるのを躊躇していた
丸木美術館へ、えいや!という思いで向かったのだった。当時の日記を開いてみた。
…実家の車を借り、一路丸木美術館へ向った。覚悟していた。けれど、足を踏み入れる時、立ち止まってお祈りした。どうか心を静めて、メッセージを受け取れますようにと。
その見上げる壁一面にある図は、魂の叫びだった。何人もの人と目が合った。全身に鳥肌が立った。しーんとした静寂と、切れるような凍てつく寒さ。
そして思った。位里さん、俊さんは、とにかく描かずにはいられなかったのではないかと。その魂たちと対話し、自分たちの絵筆でよみがえらせることで、鎮魂すること。その使命をひたすら全うしようとされたのではないか。
色々なことがある。様々なことが起こる。複雑怪奇なことばかりである。でも、でも、大切なことは、やっぱりシンプルなのだ。大切なことは、そう、魂のこと。魂の問題なのだ。…
魂の問題。
絵を前にして、ドーンと身体の中に入ってきた言葉だった。
今、この間にも世界で起きている悲劇の数々。
大切なのは、魂のこと。忘れないでいたい。
丸木美術館ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界
「ふたりの画家 本橋成一写真録」(オフィスエム)より
- 2009/01/14(水) 12:33:40|
- 気になること
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お餅の話しでもうひとつ。
祝島では、ちょっと前まで、お餅を“水餅”にして保存していました。
正月にお餅をつくと、それをカラカラになるまで干し、そうして乾いた餅を水の中に入れておくと、春先まで保存できたそうです。
昔は、アワやらヒエでもお餅を作って、一緒に水の中に入れていたので、子どもたちは一番美味しいお米の餅を、我先にと探し出した。当時は、5人、6人きょうだいなんていうのが当たり前だったので、その争奪戦は、どのお家でも繰り広げられた光景だったといいます。
今と違って、食べるものがたくさんなかった時代、お餅は腹持ちがよくて、育ち盛りの子どもたちのおやつにも大活躍だったのでしょう。
- 2009/01/08(木) 14:13:24|
- 島の生活
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祝島のお正月は、とても静かなのだと聞いていました。冬になると風が強くて寒いし、海が時化て定期船もかなり揺れ、孫たちを呼び寄せるのには忍びない。だからお盆の方が、帰省客は断然多くて、にぎやかなのだと。今年は神舞があって、普段なかなか帰ることができない人も夏に戻ったこともあり、なおさら正月は静かだろう、ということでした。
それでも、いつもの島から比べると、年末年始を祝島で迎えるために帰ってくる人たちで、ほんのりにぎやかになって、みんな年越しの準備で急がしそうで、いよいよ年の瀬が迫っていることを感じるのでした。
お正月に欠かせないもの…それはお餅。祝島では、まだまだ自宅で餅搗きをするお家がたくさんあります。若手がいなくなり、さすがに杵で搗く光景は見られなくなりましたが、それでも、大概のお家には、自家用餅つき機があって、餅は自分たちで搗くもの、というのが祝島では大方の感覚なのです。
29日の9(苦)が明けて、30日をまわったら、餅搗きの準備が始まります。この日は、いつも遊びにいくイトウのおばちゃん家を訪ねました。親戚、友人、そして息子さん、娘さん夫婦と総勢7人。
30日の午前0時半から、お米を蒸すために、竃に火を入れました。普段は使われずに眠っている竃も、この時とばかりは大活躍。火の番は男衆の役目です。
餅米が蒸し上がると、餅つき機にお米を入れていきます。餅つき機にも、各家庭によって、色々な種類があります。お肉をミンチにする機械を大きくしたような業務用のもの、パンこね機にも使える炊飯器のような形状のものなど。
そして、つき立てでまだアツアツのお餅を、女衆がきれいに丸めていきます。お供え用のお飾り、丸餅、そしてあんこを入れた“あんべん”。

餅米を蒸かす甘い匂いと、餅つき機が廻る音。そして「昔の餅つきは~」なんて話しながら、笑いながら、わいわい作業を進める風景は、本当に楽しそうで、活気に溢れています。昔は、ここに小さい子どもも加わって、それはそれはにぎやかだったんだろうな、と想像します。
よもぎ入りのあんべんは、大福よりもひとまわり大きくて、あんこもたっぷり。撮影が終わったときに、大久保さんと私にあんべんを焼いて下さいました。口いっぱいにほおばって、つきたてのお餅のおいしさに感動。でも一個でお腹はいっぱいです。イトウのおばちゃんは、「アンタ、若いのに一個しか食べないなんて、どうしたものか」と言います。ほんとにお腹いっぱいなのです。それならばと、イトウのおばちゃんの娘さんは、そのあんべんを三個、食べたのでした。さすが!
その後も、餅つき風景を撮影してまわる度にあんべんをごちそうになり、この日は、完全に甘いもの摂取オーバーとなったのでありました。
- 2009/01/06(火) 12:56:07|
- 撮影編
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今は帰りの新幹線の中。乗車率160%。この調子だと、広島から東京までずっと立ちぼうけとなりそうです。
祝島にこうして通えるのも、応援する会のみなさまが支えて下さるから。そう思うと、島にいる間は一分一秒も無駄にできない。そんな気持ちでいつも撮影以外でも島中をウロウロぐるぐる周っています。
島にいる間は、島から力をいただいて突き動かされているような気がいつもしています。
だから祝島を出た途端、電池が切れたようになって、柳井港駅の階段をあがるときの足の重いこと、重いこと。こうしていつも東京に帰ってからしばらく苦しむのです。
でも、今年は、そんなことは言っていられません。時は金なり。東京でもしっかりと動いていきます。やることは山のようにあるのです。
とりあえず明日は一日、正月休みをいただいて、ひとしきり寝て、また月曜日から動き始めます。
大久保さん、きさらちゃん、お疲れ様でした!
そして、ヒサちゃん、ノリちゃん、本当にお世話になりました。
- 2009/01/03(土) 18:20:00|
- 撮影編
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往復1時間半の山道を歩いて、行者堂へ初詣に行き、さきほど帰ってきました。
新年、明けましておめでとうございます。
私と撮影の大久保さん、製作デスクのきさらちゃんと一緒に、祝島で2009年を迎えました。
30日の午前2時から始まった餅つき、お飾りのお供え、紅白歌合戦を見ながらの年越し風景と、撮影は大忙し。それが終わった後は、お世話になっているヒサちゃん宅で、明け方まで宴会し、そして年賀状書き。寝ているヒマはありません。
いやいや、今回に限ったことではありません。
祝島にくると、寝る時間はとっても短い。
寝ているのがもったいないのです。
楽しくて、したいことがたくさんあって、ついつい寝ることが後回しになってしまう。
そのことが、今はこよなく幸せなことに感じられます。
それでもさすがに、今は、このブログを打ちながら、まぶたがおもーくなってきました。
…どうぞみなさま、本年もよろしくお願いいたします!
- 2009/01/01(木) 17:09:52|
- 撮影編
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