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自然は自分たちの存在そのもの

知人から、自分が過去に読んだ好きな本を読み返すのはいい気分転換になると言われ、久々に手にとったのが星野道夫さんの「ノーザンライツ」。20代前半の頃、私は星野道夫さんの本を愛読していた。

あらためて思い返すと、私は小さい頃からずっと自然に憧れていた。私の両親は東京生まれの東京育ち。私には田舎というものがなく、小学校に入った頃の口癖は、田舎に行きたい、だった。小学3年生の夏休みには、仲良しの友達の田舎、岩手県の遠野に一ヶ月ホームステイさせてもらったほどだ。

高校卒業の時にクラスで作った文集には、将来の夢に「電気のない生活をする。すべてを自らで作り出したい」と書いた。そんなことはとっくに忘れていたので、最近その言葉を見つけてびっくりしてしまった。今こうして、映画製作を通して、電気を作り出す原子力発電所と向き合っていることは、やはり無関係ではないのだろう。

山小屋でアルバイトしたり、カヌーで川下りをしたり、自転車旅行をしたり、スキーをしたり、テントを背負って徒歩旅行したり、波乗りしたり。とにかく、自然の中に自分の身を置くことを渇望していた。でもそれはどうしたってレジャーやスポーツの領域を脱することはなく、自然と共に生き“生活”をしている人に対して、ずっと憧れと尊敬の想いを抱いていた。だから、アラスカに広がる大地に惹かれて、旅人であった星野さんがその地に根を下ろし、あたたかい眼差しで生命あるものを見つめている世界に引きつけられたのは、とても自然なことだったと思う。

その星野さんの遺作となった「ノーザンライツ」の中で、こんな話しが出てくる。アラスカ北東部の壮大な原野は、数十万頭にもおよぶカリブーの出産地であり、かつてアイゼンハワー大統領が未来の世代のためにこのまま残しておこうと野生生物保護区にした場所だった。しかし、油田発見を機に、アメリカ経済政策の中に組み込んでゆくかどうかで、アメリカ中が論争に揺れ、環境問題のシンボル的な存在となっていく。その地にはカリブーの狩猟生活に大きく依存するグッチンインディアンの人々がいた。しかし、油田開発に反対するシェラクラブをはじめとする様々な環境団体は、あくまで白人の視点に立った自然保護運動を続けていた。そんな中で、グッチンインディアンたちは自ら声を上げる。“ちょっと待ってくれ。おれたちの想いは、あなたたちの考えている自然保護とはすこしちがうんだ。おれたちは季節と共に通り過ぎてゆくカリブーを殺し、カリブーと共に生きている。自然は見て楽しむものではなく、おれたちの存在そのものなんだ”と。

10年以上も前に読んだこの話しは、私の心の奥底に刻まれた。そして今再び読み返し、この言葉を祝島の人たちに重ね合わせている。

島の人たちにとって、海は生計を建てるためのものだけでなく、それ以前にまず自分たち自身がこの海で獲れた魚を食べて生きている。目の前の海に行けば、いつだって新鮮な魚や貝、海藻があって、それを食べて祝島の人たちは大昔から生きてきた。「必要最低限のお金があればそれでいい。海はお金では売れん!」という祝島の人の言葉は、何代にもわたって、海の恵みで生きてきたその記憶に裏付けされたものなのだ。都会に住む人が、思想やイデオロギーによって、或いはたくさんある選択肢の中から原発に反対するのとは違って、島の人にとっては原発という存在は千年単位で続けてきた生活を断絶することを意味する。島で生活を続けていくことと、原発に反対することはイコールなのだ。

都市に住む者と“その地”に住む者との違いを認識することは、とても重要なことだと感じている。そして、巨大化した都市で生きる者は(まさにこの私のことでもある)、膨大なエネルギーを消費している一員として、様々な場面に用意されている様々な選択肢の中で、何を基準にしてものを選ぶか、その責任は重大である。そこには、選択肢が数多くある分、よりいっそうの厳しさを持って、意識して、選択、決断していかなければいけない。多く、安く、簡単に、便利に、を追求する選択が寄り集まっている中で、これからの自分、自分の子ども、そのまた子どもたちにとって、真の幸いをもたらす選択とは何か、そのことをいつでも念頭においておかなければいけない。ひとりひとりの責任は非常に重い。

瀬戸内海の海と祝島の土とにつながって生きてきた祝島の人へ心から敬意を表し、この島の人たちの真の協力者、応援者でありたいと強く強く願っている。



夕焼けの海



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  1. 2009/08/15(土) 00:31:46|
  2. 島の生活
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ひたすら受容するということ

今回の撮影も7日目を迎えた。
東に西に、山へ海へ、それぞれのお家にと飛び回っている。
昨日は、朝3時に漁師さんと漁に出て、夜の8時に終わった定例デモまで撮影が続き、さすがにヘロヘロ。夜は泥のように眠った。

今年は、祝島にとって厳しい年だ。
4月から6月までがシーズンの甲イカ漁の水揚げは、例年の3分の1。漁協の加工場に持ち込まれる量も驚くほど少ない。
祝島の名産、ビワも2月末になってから降った雪で凍みて、へその部分が黒く痛む“ヘソグロ”になってしまうものが多く、こちらも収穫量は例年の2分の1から3分の1。
そして、4・5月とほとんど雨が降らず、山の湧き水を使っている田んぼは、干上がってしまっている。この時期に田んぼがこんな状態になるのは、この70年の間でも初めてのこと。こりゃあいよいよおかしいど、とマンジさん。

島の人はいつもと変わらず、毎日を送っているけれど、でもどこかで、ジワジワと迫ってくる異常ともいえる気象の変化が、島の人たちの心に暗い影を落としている。

でも、思うのだ。きっと今までも、こんなことはたくさん、たくさんあったに違いないと。雨がなかなか降らない、時化が続いて漁に出られない、恐ろしい台風の上陸で家が半壊する…。
そして、いつだって、島の人はそれをひたすら受容してきた。自然の恵みをいただくということは、イコール“受け入れる”という言葉と同義語なのかもしれない。農業や漁業をする上で、どんなに人間にとって具合が悪くても、恨めしい結果となっても、それは受け入れる以外にはないのだ。そして、淡々と日々自分ができることを続けていく。

そうしてひたすら自然を受け入れ続けて生きてきた祝島の人たちが、、原発だけは絶対に受け入れない、と言っているのだ。絶対拒否なのだ。自然に即して生きている人間には、どうしたって原発は折り合わないものなのである。

ひたすら受容する。
人間がそれをできるときは、その背後に働いている大きな力を信じきることができる時なのだと思う。



英一一本釣り





  1. 2009/06/10(水) 00:44:19|
  2. 島の生活
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東京ー祝島間、8時間は長い?短い?

昨日から祝島に来ている。
東京ー祝島を往復するのも、20回を超えた。
自宅を出てから祝島まで、新幹線を使う場合は約8時間半かかる。

先日、島のおばちゃんたちと話していた時のこと。
「あんた、東京から祝島までどのくらいかかるん?」
「家を出てからだと8時間半くらいかな…。」
「ずいぶん早くなったもんやね。」
「……!?」
「昔は、一昼夜かかったもんよ。それにあんた、今だって、わしら病院に行くのも、朝便(6時半)で島を出て、晩便(16時半着)で帰ってくるんよ。一日がかりなんよ。」

そうか…。
8時間半の移動なんていったら、近場の海外よりも断然時間がかかると思っていたけれど、島のじいちゃんばあちゃんが、病院に行って帰ってくるまでにかかる時間は10時間。私の中に流れているのは、大都会東京の時間、一本電車に乗り遅れても、5分後にはすぐに次の電車がくる、そんな時間にすっかり慣らされてしまっているのだなあと、あらためて思うのだった。

時間は誰にも平等に、そして均等に流れているものと思っているけれど、でも今自分が住んでいる場所が保有している時間感覚が、自分の時間感覚になっている。その土地が持つ“時間”が、自分の時間になっている。
そして、もしかしたらその場所ごとに、時間の質量みたいなものも違うのかもしれない。

東京での1時間と、祝島での1時間、確かに違うんだよな…。




  1. 2009/06/01(月) 22:57:20|
  2. 島の生活
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お正月の風景 番外編

お餅の話しでもうひとつ。

祝島では、ちょっと前まで、お餅を“水餅”にして保存していました。
正月にお餅をつくと、それをカラカラになるまで干し、そうして乾いた餅を水の中に入れておくと、春先まで保存できたそうです。

昔は、アワやらヒエでもお餅を作って、一緒に水の中に入れていたので、子どもたちは一番美味しいお米の餅を、我先にと探し出した。当時は、5人、6人きょうだいなんていうのが当たり前だったので、その争奪戦は、どのお家でも繰り広げられた光景だったといいます。

今と違って、食べるものがたくさんなかった時代、お餅は腹持ちがよくて、育ち盛りの子どもたちのおやつにも大活躍だったのでしょう。


  1. 2009/01/08(木) 14:13:24|
  2. 島の生活
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